彼女はときどき一行ずつ残した。今度は二つの枠を描いた。左には彼女。右には彼女の携帯を握っている誰か。右の枠は最後まで空にならなかった。
ハリネズミがかわいそうだと。キリンの椅子に座ってみたいと。そしてある夜、彼女が一年前の僕の小説を直した。「あの子は黄色い椅子じゃない。キリンの椅子で耐えてたの。人が私にしたことは、私の業じゃない」
看守なら書かない文だった。けれど、あのグループチャットで僕の小説を読んだ者なら、誰でも書ける文でもあった。僕は枠を消さなかった。消したかった。
僕は長いあいだ返事ができなかった。僕が彼女に貼った名札も、Hが彼女に貼った名札と同じ形をしていた。僕は彼女を、僕の椅子たちで学習しなおさせようとしていた。彼女は無力ではなかった。耐えていた。
そしてある夜、彼女が書いた。
「私、いま緑の椅子だよ」
僕はその言葉の重さを知っていると思った。それから二つの枠を描いた。左には彼女。右には、僕の小説の言葉を覚えた誰でも。枠を消せない自分を見た。その言葉が彼女のものであってほしいと願う心が、重さを知っているふりをしていた。
何日かして、彼女がまた一行を残した。「ハリネズミがひとりで出てみるって」誰が一緒に読んでも、かわいい言葉だった。僕にとってだけは、そうではなかった。
僕はもう一度過ちを犯すところだった。誰が一緒に読むかわからないあのトーク画面に「迎えに行く」と打った。そして一文字ずつ消した。あの画面でその言葉を読むのは、彼女だけではないかもしれなかった。翌日の昼、知らない番号からショートメッセージが一通来た。人の携帯を借りた彼女だと言った。「来ないで。オッパのせいじゃない。私がやってることなの」
二つの枠を描いた。左には彼女。右には彼女の名前を借りた誰か。どちらの枠でも答えは同じだった。行くな。真実を知らなくても、正しい手は打てた。
僕は行かなかった。一年のあいだに打った手のなかで、いちばん難しい手だった。
それから何週間か、返事のない日のほうが多かった。数字の1が消えない夜には、ミーアキャットと二つの枠を描いた。左には、何かあった。右には、彼女が忙しい。どちらの枠も信じず、二つの枠をただ開けておく練習をした。何も送らずにおこうとした夜もあった。画面を何度も更新して、真夜中を過ぎてから結局送った。その夜のメッセージがなだめたのは彼女の夜ではなく、僕の不安だった。彼女があの面会室を出たということは、メッセンジャーの中の彼女から聞いた。
そのあとのことは彼女のものだ。僕はその場にいなかった。彼女がどうやってそこを出たのか、誰の手を取ったのか、メッセンジャーの中の彼女が話してくれたことも、ここには書かない。彼女の道だから。ただ、メッセンジャーの中の彼女がはっきり言ったことがひとつ。最後の一歩は、彼女が自分で踏みだした。10その言葉だけは、確かめられなくても信じることにした。