第1部 受け流す · 第1章

金星

約2分· 注1件

彼女は金星から来た。2少なくとも僕はそう信じていた。金星から来た人にとって、数字は風景の一部にすぎない。夕焼けを見れば夕焼けを見るし、値札を見ればそのまま通り過ぎる。

僕たちは、ある年上の男が呼び集めた席で初めて会った。僕よりひとつ年上の男。ここではBと呼ぼう。長いつきあいの、慕っていた年上の男であり、友だちだった。しょっちゅう会うわけではなく、忘年会のようなときにほかの共通の友だちと集まる程度だった。Bは人を集める才能があった。その日、Bは行きつけのウイスキーバーに知り合いを呼び集めた。外国から来た投資家がいて、Bのボスがいた。名刺ではBがいちばん上だったが、本当のボスは別にいた。紹介したい人がいると、Bは前から何度か言っていた。バーの端に座った彼女は、花を扱う仕事をしていると言った。話すのがゆっくりで、笑うときはまず目を伏せた。花の名前は、数字よりずっとよく覚えていた。彼女が僕を見て笑った。「Bオッパが紹介したいって言ってた人、オッパだったんだ」夜が更けると、僕たちはみんなでクラブへ移った。

彼女の隣には、その日も、それからもいつも、彼女のいちばん親しい姉貴分がいた。どこへ行っても人のほうが先に気づく顔。ここではHと呼ぼう。どんな席でも先に口を開き、席を決める人。Hはよく彼女の言葉を代わりに終わらせた。「この子は怖がりで、ひとりじゃ何もできないの」

彼女はBをオッパと呼んだ。古いつきあいではなく、知り合いのオッパだと言った。その夜をきっかけに僕たちは親しくなり、四人でよくつるんだ。

一年ほどして、僕たちは真剣に付き合ってみることにした。古くから知っている先輩にその話をすると、彼は長いあいだ煙草をふかしてから言った。「神様は何をお考えなんだろうな」そのとき僕は、その言葉の意味がわからなかった。

彼女は何年も前からパニック障害を患っていた。店をたたんだ年、地下鉄の中で初めて息ができなくなった日からだと言った。薬袋は僕の手のひらより厚かった。Hが持ってくる薬もあった。その袋には名前がなかった。その薬を誰が用意し、誰が量を決めているのか、僕は一度も訊かなかった。

ある日、彼女は弟の名前をしばらく思い出せなかった。パニックのせいか、薬のせいか、眠れていないせいか、彼女にもわからなかった。

メッセージはよく遅れた。訊くと彼女は笑った。「私、もともと遅いの。メッセージはコピーしておいて、あとで見るんだ」変な癖だと思った。そのときは、それだけだった。

注

  1. 2

    ジョン・グレイの『男は火星から、女は金星からやってきた』(1992)から借りた言葉だ。